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【読書レポ 論文編】魔法を与えられた少女が象徴するパワー

 

可愛く変身できる魔法

子どもの頃、ほうきにまたがって空を飛ぶマネをして遊んだことはありますか。ほうきで空を飛ぶ魔法は、魔女がもつイメージのひとつです。

魔法を使って戦うのは、なぜか少女のイメージが強い日本アニメ。今回は、その「魔法少女」は、「魔女」のイメージがどのように関係しているのかについて論じた論文を共有します。

 

共有する論文:「「魔法少女」アニメからジェンダーを読み解く」

 

夢と希望になった「魔」

須川は、「魔法少女」をジェンダーの視点から読み解くために以下のような3点に注目することを提案します。

 

①「西洋」の魔女をベースにした魔法少女の表象の日本における社会文化的意味はどのようにして作られたのか?
②「西洋」の魔女をベースにした魔法少女の表象における社会的文化機能はどのように作用したのか?
③「西洋」の魔女をベースにした魔法少女の表象は、社会文化的コンテキストにおいてどのように変容し、どのような意味を生成したのだろうか?*1

 

キリスト教における「魔女」は、中世では、どちらの性別の人物かを意味していませんでした。それが徐々に女性を指すようになり、18、19世紀の欧州では「悪魔に従う女性」として魔女を描きました。しかしながら、子供向け映画に登場する魔女は、悪いイメージを持たない「良い魔女」も存在します。ここにおける魔女は、結びつく要素によって姿を変えていきます。

 

日本における「魔女」と近い存在に、「女妖怪」がいます。女妖怪は、外見の美醜に関係なく、男性の思うままにならない存在であることが共通した特徴です。つまり女妖怪は、男性にとって恐怖の存在であり、彼らが持つネガティブなイメージが女性へ付けられたために生まれたのです。日本人にとって、「魔」が女性と結びつくとき、権力を握る男性たちが抱える不安感や恐怖を他者である女性へ投影し、それを否定、排除することで権威を守ろうとしてきた歴史が思い起こされます。そのため子供向けアニメに相応しくないと考えられてきました。

 

このような事情から、日本の子供向けアニメは「魔法少女」を創りだします。須川は、このことを以下のように指摘します。

 

そこで持ち出されたのが,西洋の<魔女>と「少女」である。キリスト教におけるコンテキストに精通していないゆえに,禁忌のネガティブイメージは日本人には実感がなかった。<魔女>が,「西洋」のかっこよさ,女性の強さ,そしておしゃれのセンスを伴い,三角帽子にマントに杖といった記号化された意匠だったことも,少女主人公のモデルとして選択されやすかった理由としてあげられるだろう。p.111

 

このような選択をすることで、魔法少女は西洋の魔女がもつネガティブイメージを子供向けアニメに持ち込まないことに成功しました。

 

1960年代に放映された「魔法使いサリー」以降、女性たちの社会的時代背景を反映しながら、魔法少女の魔法の意味が表現されてきました。それらは女性が既存の性規範に囚われずに、女性である自分を肯定してきました。2000年代に放映された「セーラームーン」のヒット以降、魔法少女は、西洋的なイメージから魔法によって自らをドレスアップし、美しく、たくましく戦う少女へとイメージが変化します。

 

女児向けアニメと異なる深夜アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」が「魔法少女」が抱える矛盾に切り込みます。従来の「魔法少女」アニメでは繰り返し、戦う理由を弱者や仲間を守るためとし、自己犠牲を自らに強いました。『セーラームーン』『プリキュア』は、成人女性(母親を除く成熟した身体)を敵として描きました。しかしながら、魔法少女の敵の姿は、成長した自分の未来の姿でもあります。つまり、敵を倒すことは成熟への拒否であり、少女でいられる期間を延ばすことでもあります。このことを「魔法少女まどか☆マギカ」は明示し、従来のアニメが描いた主人公の自己犠牲について、須川は「魔法少女まどか☆マギカ」シリーズから以下のように考察します。

 

<魔女>になってしまったほむらは,「魔法少女は夢と希望を叶える」と言って自己犠牲したまどかを,欲望のままに神的存在からひきずり下ろしてしまう。ここで問われるのは,魔法少女が叶えるのは,“誰にとっての”夢と希望だったのか,ということである。魔法は少女をエンパワメントし,美とパワーを手に入れたかにみえた少女たちであったが,無害化,理想化された少女像の枷から逃れていないのだ。*2

 

「魔」が自己へ向けられるとき

別の研究者が書いた論文でも、戦う少女が成人女性を敵とすることで成熟への拒否、あるいは男性に恋する描写から揺らぎがあるという指摘があります。少女は、成人の世界から切り離されることで自身を守ることができます。しかしながら少女は、やがて自分も大人の仲間入りを果たし、その瞬間、二度と少女に戻れないこともよく理解しています。したがって身体、社会的成熟を促されることは少女たちにとって脅威であり、「いま、ここ」の期間を延ばすためには戦うしかありません。

 

歴史的にみた場合、女性がもつ「魔」は、他者である男性へ向けられていました。それが「魔法少女」になった瞬間、その「魔」は自己である女性へ向けられるようになっています。もちろんアニメでは、男性の敵も少なからず登場しますが作中で印象的に描かれやすいのは、王子様てきな少女と親しい男性の存在でしょう。状況によっては、少女の王子様である男性も戦闘に加勢し、一人で強敵を倒して少女を救出することもあります。そして少女がこの状況を望んでいるように、王子様である男性に依存する描写が見られ、このことについての批判が散見します。

 

成熟を拒否し続ける少女にとって男性の存在は、最大の脅威になる他者のはずです。本来なら、排除すべきとしてその魔法を存分に発揮するべきでしょう。しかしながら、作中では少女を護り、少女が心を開ける数少ない他者として振る舞います。戦い、勝ち続けるはずの魔法少女が本当は、未成熟であるがために力弱く、限定期間を過ごすため脆い存在であることを自覚しているからだと思います。したがって魔法は、その少女の脆弱性を補うために機能するといえます。

 

魔法少女」がもつ「魔」が自己である女性へ向けられる問題について、注目すべき点は、少女にとって「母親」が他の成人女性と異なる意味を持つ点だと思います。少女にとって「母親」は、最も想像しやすい自分が成熟した(しきった?)未来の姿です。したがって、向き合うに堪えがたいはずです。それでも少女にとって最も長く関係をもち、無条件で味方でいられるのも母親です。このような存在の母親を否定することは、自身の過去、ルーツを否定することにもなります。しばしば「魔法少女」や少女アニメには、弱者(赤ちゃんや幼い動物)を世話し育てることで、疑似的に母親になることがあります。「無害化、理想化された少女像」の中で、母親がどのような文化的意味を生成し、少女たちが母になることをどのように考えているのかについてもう少し、ジェンダーの視点から議論が欲しいと感じます。

 

calil.jp

*1: p.109

*2:pp.119-120